矢野先生が戦争中に守った馬たち|2017.11.07
私が矢野先生のアシスタント兼ドライバーとして、一緒に牧場を回っていたのは2001年から2003年の2年間でした
矢野先生はご自分の経験を話すことが、とてもお好きな方で特に西大尉や名馬モンタサンの話などは何度も何度もお聞きしました
その中で数回しかお聞きしていない話があります
競馬界の歴史上、とても大切な話なので、裏付けをとってどこかで公表しようと考えていたのですが、それが極秘に行われていたこと、私がこの話を聞いた時点で矢野先生以外の関係者は亡くなられていたことなどから、資料を探すことが出来ませんでした
今日は矢野先生のご命日なので、「私が矢野先生にお聞きした話」として、ここに綴らせて頂きます
この話は私の友人でもある矢野先生のお嬢さんも聞いたことがないそうです
それだけ辛く厳しい経験です
聞いていた私も耳をふさぎたくなったくらいですから・・・・
競馬界と軍隊が密接な関係であったことは前回お伝えしました
戦争中1943年に競馬中止となっても1944年にダービーの代わりとなった「能力検定競争」が行われていたのは、軍事目的で速い馬を育てるという方針があったからです
しかし戦争終盤になると馬は軍事目的よりも医療に使われるようになりました
破傷風のワクチンです
戦争で怪我をし、破傷風菌に感染した兵士のために沢山のワクチンが必要になったのです
破傷風のワクチンには馬の血液が使われます
少しでも多くの血液が必要だったため、生きた馬から血液を抜いたのです
その情景は地獄絵図のように悲惨だったことでしょう
競馬界の人たちは、その馬の管理をしていたようです
どんなに辛かったか慮れます
矢野先生と数人の仲間たちは血統の良い馬13頭を選び、戦争が終わるまで隠して世話をすることに決めました
馬が全部死んでしまっては、戦争が終わったあと競馬が再開できないと考えたからです
「お国のため」「兵隊さんのため」国民が玉砕覚悟をさせられた時代です
もし発覚したら「非国民」となり重罪おそらく死罪だったかもしれません
矢野先生は罰せられることは、全く怖くなかったといいます
それよりも戦争が終わったときに、「競馬界」という自分の居場所がないことのほうが許せなかったようです
「他の人たちは気付いていたのでは?」と尋ねると
「知らない」と静かにつぶやかれました
おそらく周囲の人は気付かない振り、見て見ぬ振りをしていたのだと思います
矢野先生たちが守った13頭と、あと数頭の馬たちがいたおかげで昭和22年の春、終戦からたった1年半で中山競馬場は再開したのです
「競馬界は俺たちが作った」という矢野先生の口癖は、このことからも頷くことが出来ます